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- 孤独感を感じている
- 人生を豊かに過ごしたい
- 本当に大切なものに気づく方法を知りたい
ネタバレを含みますのでご自身で読みたい、余計な先入観を持ちたくないと思う方はこの先へ進まないでください。
スタンフォード大学 いのちと死の授業
「スタンフォード大学 いのちと死の授業」は、スタンフォード大学で行われた特別な授業を基にした書籍であり、生命と死というテーマを深く掘り下げています。この本を読んで感じたことは、死を考えることがいかに私たちの生き方に影響を与えるかということです。著者は学生たちの実体験を通じて、死に対するさまざまな感情や思考を描写しています。
また、哲学的な視点からのアプローチが生命の意味や価値についての深い考察を促します。本書は多様な文化や宗教に基づく死の捉え方を紹介しており、読者は異なる視点を学ぶことができます。これにより死というテーマが持つ普遍性を理解し、より広い視野を持つことができるでしょう。
感情的な共鳴も本書の大きな魅力だと感じました。学生たちが話す感動的なエピソードや深い洞察が読者の心に響き、読後に余韻が残ります。
上記のことから「スタンフォード大学 いのちと死の授業」は、生命の意味を考えさせられるだけでなく、日常生活における選択や行動に新たな視点を与えてくれると言えます。死を意識することで、より豊かな人生を送るための手助けとなると思います。自己成長や人間関係の重要性を再認識したい方に特におすすめしたい一冊です。
読んでみて、変わったこと
ここでは、本書を読んでから変わったことや気づかされたことを一部抜粋しながら書いていきます。
今は二度と訪れない
「私は死につつあります。」
「そして、皆さんもそうです。」
「それから私は生きています。」
「そして皆さんも同じく、生きています。」
祖母は日本人の平均寿命に達していて、目には死が近づいているように見えていた。一日一日が生きて愛することのできる新たな機会であった。
彼女の言う「もう会えないかもしれない。」とは、「今ここに自分を置いて、現実をしっかり見て、本当のことを言いましょう。」という意味でした。
「死」を現実的なこととして意識させる言葉から授業はスタートし、話は筆者の祖母の話へと進んでいきます。
彼女は高齢で余命幾ばくもない状態で日々を過ごしていました。「もう会えないかもしれない。」筆者は心の底では理解できていても、大げさな感情でとらえてしまうことが怖くて何でもないように振舞っていたそうです。
自分に残された時間は残り僅か。ありふれた活動の中から必要なものが見えてきて、より今を大切にしようとする気持ちが芽生えてきます。
「今ここに自分を置いて、現実をしっかり見て、本当のことを言いましょう。」死には過去も未来もなく、今だけしかありません。いざ身になって経験しなければ気づかないというのはままならなく、本当にもどかしいことだなと感じます。
経験について筆者はアインシュタインの言葉を引用し、こう語っています。
「情報は知識ではありません。唯一の知の源は経験です。知を得るには経験が必要なのです。純粋な論理的思考では、経験的世界の知識は得られません。あらゆる現実についての知は、経験に始まり、経験に終わるのです。」
どんな情報や物語に触れても、身をもって経験した出来事以上に勝るものはありません。この言葉に触れて、感謝の心を忘れずに、今この瞬間を最大限に活かすことを常に考えていこうと思いました。
失うということは価値を知ること

もしかすると私たちに与えられる多くの困難、喪失、試練は、その後により大きなギフトを受け取れるようにするための手段かもしれません。
驚くことに、得たものの多くは私たちが失ったものと関係があるものなのです。あなたが失ったものはなんでしょうか。
人生で最も辛い教訓の1つは、私たちは失ってはじめてその価値に本当に気づくことができるということです。
得たものは失ったものと関係がある。あまりに大きな喪失感にとらわれて得たものなど全く考えもしませんでしたが、改めて考えてみると思い当たる節がたくさんあります。それが失ってしまったものと繋がっていると受け止められる視点を持てたことで、少し寂しさが和らいだような気がしました。
私たちは失ってはじめてその価値に本当に気づくことができる。ということは、喪失から得たものは本当の価値を知った状態で得ることができる。とも言えると思います。より大切にする、という言葉の意味を深く理解できました。
欲求に対し誠実に向き合い行動する
大変だったのは否定しないが、父親だったことが一番濃厚な人間らしい経験を与えてくれた。それに感謝している。
もしそのアイデンティティのことで孤独を感じたり、同じ経験を共有する人が誰もいないと感じたなら、よく覚えておいてください。たとえそれが本当だとしても(おそらくそうではありませんが)、皆さんを孤立させているものこそ、皆さんが愛される理由なのです。
私は主人の妻だったことが一番濃厚な人間らしい経験を与えてくれたと思っています。同時に、その経験は私を孤独にさせるものでもありました。
ですが抱え込まず、この経験を共有することでまた繋がれるもの、得られるものもあるのは確かだと思います。
私のアイデンティティやジェイミーの話があったから、思いやりのある私になることができたと思っています。そして私と他の人たちとを結びつけてくれたのは、私が恥じていたことや、自分だけだと思っていたことです。
「人にしてもらいたいと思うことを、他人にもしなさい。」と小さいころ親に教えられました。人によっては経験した出来事を話して共有することに抵抗を感じるタイプの方もいると思います。ですが出来事の共有はできなくても、その経験から生まれた欲求は必ずどこかで誰かと繋がっています。
欲求に対して誠実に向きあって行動すること。それが与える形か受け止める形かはわかりません。ですがどんな形であれ、想いが報われる時は行動することでしか訪れないのだなと思いました。
たださらに愛する

「愛犬の死を乗り越えるのではなく――ただ、さらに愛することを学ぶのです。」
また、自分が望む変化が生じるのを待って努力している時には、「手にしているもの」に感謝して過ごすのではなく、「手にしていないもの」への虚しさを抱えて暮らすことになるでしょう。
『死の瞬間』で知られる精神科医、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、もっとも美しい人とは、敗北、苦しみ、苦闘、喪失を知ってその深みから抜け出す方法を見つけた人だと言いました。
私は主人を癌で亡くしています。
いつまでもこのままではいられない。周囲の反応も時が経つにつれてどんどん変化していく。早く前に進み始めなければ。
そんな焦りから乗り越えることばかりに意識が向いていたので、「たださらに愛する」この考え方には救われた思いがしました。ないものではなく、あるものに意識を向けることで自ずと応えが返ってくる。
主人の友人から、「迷うことがあれば心の中にいる〇〇さんを思い浮かべてみてください。きっと全てはそこにあります。」と言葉をかけていただいたことがあるのですが、その意味がようやく腹落ちしました。
敗北、苦しみ、苦闘、喪失を知ってその深みから抜け出す方法を見つけた人とは、「ないもの」に囚われず「あるもの」と向き合い、物事の本当の価値に気づける人とも言えるのかもしれないと感じました。
受け入れることで与えられるものもある

私が興味があるのは、発見なのです。失った能力を取り戻すことはできないかもしれませんが、脳卒中とその後遺症という経験が、人生で私自身になにを示してくれるのかに興味があるのです。
祖母は、大切な人たちにとってベストなものを欲していました。
闘病中の主人の病状は瞬く間に進行し、1週間も経てば別人のように変わってしまうほどでした。次第にできることも限られていきましたが、主人は常に「できること」に全てを捧げ、そしてそれがもたらす変化について毎日伝えてくれました。
できることがあるならなんでもするつもりで日々接していましたが、なにか要望を聞いてもこちらの心配ばかり。優しさから本心が言えないままでいるのではないかとやきもきして、ついつい押しつけがましくなってしまったこともありました。でもそれは間違いであって、主人もまた、大切な人たちにとってベストなものを欲していたのだと気づきました。
「他の人に与えることこそ、私に生きている実感を与えてくれることなのです。」
人生においてもっとも大切なことは、いかにして愛を与え、いかにして愛を受け入れるかを学ぶことなのです。
自分を納得させるためではなく、その人の立場に立って思いやりをもつこと。与えるだけが全てではないこと。受け入れることで与えられるものもあるということ。
ずっと苛まれていた罪悪感が、少しだけ薄れたような気がしました。
まとめ、感想
- 今は二度と訪れない
- 失うということは価値を知ること
- 欲求に対し誠実に向きあって行動する
- たださらに愛する
- 受け入れることで与えられるものもある
生きている以上、いつか死ぬことは避けられません。同様にこの本の内容も決して古くなることはないと感じました。人生においてのステージに縛られることなく、いつどのタイミングで読んでも気づきが得られる本だと思います。
いわゆる自分と共に伴走する本、というやつです。小さい時にエヴァンゲリオンを観た時と大人になって観た時とで感情移入するキャラクターが変わる感覚に近いかもしれません。
この記事が読まれた方の参考になれば幸いです。
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